いまひとたびの 21



走り去る泰明の姿は、宮中からの使者の目には
凄まじいつむじ風としか映らなかった。

「な……何だったのじゃ、あれは!? 無礼であろう!」
使者は、左近衛府少将と安倍晴明と覚しき人物を交互に見ながら、
精一杯の威厳を見せた。

しかし
「まずい所に来てしまったね」
左近衛府少将の声は冷ややかだ。

さらには
「修法が途中で断たれるは凶。
祓われぬままの穢れが、解き放たれてしまいましたぞ」
晴明らしき者が厳しい表情で言った。

「ど……どういうことだ」
使者がおそるおそる尋ねると、
「君も私も、穢れを受けてしまったということだよ。
しかも、晴明殿自らが手を下して祓うほどの、強い穢……うっ!」
左近衛府少将が、言葉の途中でその場にくずおれた。

「ひっ!!」
使者は思いきり遠くへ身を避ける。

それを一瞥した晴明は一人の弟子を手招きした。
「使者殿に災禍が及んではならぬ。
早く屋敷の外へお連れするのじゃ」

「承知。さっ、こちらへ」
弟子に導かれるまま、使者はその場を逃げ出した。
そして幾重にも曲がる回廊と、式神の影が見え隠れする林を抜け、
やっと安倍屋敷の門を転がり出た頃には、
顔の色は蒼白、足元までよろよろとふらつく始末。

「どうぞお気をつけて」
見習いの少年に声をかけられても、無礼者と怒る余裕などない。
威厳より、我が身の無事だ。

一条戻り橋を渡った先に待っていた牛車に乗り込んで、やっと一息つき、
聞きしに勝る安倍屋敷の怖ろしさに、使者は改めて身震いした。

牛が恐がって、橋に近づこうとしなかったのも無理はない。
よくぞ無事に戻ってこられたものだ。
務めも立派に果たした上は、あのような所に長居は無用……。
む……? 務め……? そういえば……我が務めとは……

『安倍晴明殿は追ってお召しの沙汰があるまで、
屋敷より出ることまかり成らぬ。
承服の旨、我が目の前で書状にしたためるように』と、
逆らいようのない威厳を以て言い渡したのに、手ぶらで逃げてきてしまった……。

私としたことが、すっかり忘れていた!
これはまずい。失態どころではすまぬ。

では、あの屋敷に引き返すか………。
いやいやいやいや、そのようなことは怖ろしくてできるはずもない。

しかしその時、使者は自分の懐に何かが入っていることに気がついた。
取り出してみると、それは晴明からの返書。
礼に則った非の打ち所のない文章で、下命は承服したと書いてある。

いつ懐に入ったのかと疑問がよぎるが、とにかくこれさえあれば
使いを果たした証しになる。
使者は細かいことは気にしないことに決め、
長い長い安堵の吐息をついた。



使者の去った安倍屋敷から白い鷺が飛び立った。
泰明の行方を探すため、晴明が放ったのだ。

鷺を見送ると、晴明と友雅は相対して座した。
二人の間に、初対面の時のような探り合いはもうない。

「少将殿の倒れ方は真に迫っておりましたな。
御使者をおどかすとは、何とも人の悪い」
と晴明が眉を上げると、
「お褒めにあずかり恐縮です。
しかし晴明殿こそ、とお返ししましょうか。
即刻お帰り頂いたお手並み、いたく感服しました」
友雅は艶やかに微笑んでみせる。

その時小さな咳払いと共に、晴明の息子吉平が部屋に入って来た。

「お師匠様、宮中の使者相手にお戯れが過ぎたのでは」
「今は時が惜しいのじゃ。
左近衛府少将殿が作ってくれた好機は逃せぬ。
所望の書状を入手したなら、使者殿も否やはあるまい」

吉平はそれ以上言わず、自らも腰を下ろした。
「ご報告が二つあります。
少将殿が入手した式神の欠片と……」
そして一度言葉を切って晴明に目顔で問う。

「続けて構わぬ。少将殿はさる御方の命にて、全てに関わっておられる」

その意味をすぐに解した吉平は、友雅に目礼して言葉を続けた。
「貴船社の件ですが、白馬と黒馬双方に呪詛の痕跡がありました」

「何と……呪詛を受けた馬を貴船社の神域に入れてしまったというのか。
馬が元の色に戻った今、どのような呪詛かは分からぬのだろうな」

「はい。しかしながら、どちらもたてがみの一部が切り取られていましたので、
そこに呪詛が仕掛けられたのではないかと」

「まさかあれが……」
友雅は呟いた。

今朝のことを思い出したのだ。
貴族の形をした式神から繰り出された、全身を覆い尽くそうとする糸。
あのように細い糸ならば、たてがみに織り込むことができるのではないか。

「吉平殿、例の式神が関わっているのでは……」

式神との戦いの経緯は、すでに晴明と吉平の知るところだ。
友雅の話に二人は大きく頷いた。

「貴族を模せば馬寮への出入りも可能。
人の形を装うほどの力を持つなら、
馬に合わせて色を変え、たてがみそのものとなることすらできよう。
これは、少将殿に感謝せねばならぬな」

「まことに。あの欠片が貴船社の件にも関わっていたとは。
ところで、あれは一見糸の切れ端のような姿をしていますが、
調べましたところ正体は鬼神の……
……む、お師匠様、いかがなされました!?」

吉平は突然言葉を切った。
晴明がうつむき、手で顔を覆ったからだ。

「いや、大事ない。我が戯れが返されたのでな。
二人とも、笑うでないぞ」
晴明が手を下ろして顔を上げると、その頬には朱い丸が描かれている。
頬だけがまるで童のようだ。

笑うよりも驚きが先立つ友雅と吉平の前で、
晴明は朱丸をぺりぺりと剥がし、ふっと息を吹きかけて消し去った。

「お師匠様、その朱丸はもしや呪印では?」
「戯れとは?」

続けざまに問う二人を、晴明は手を上げて制した。

「しばし待て。
これは重大なことじゃ。よく考えねばならぬ」

――そうだ。
この呪印は極めて大事なことを示している。

昨夜、頼久から小箱を奪った主は右大臣殿。
小箱に仕掛けた朱い呪印には、三日三晩消えぬように術を施しておいた。
なれば、まだ右大臣殿の頬には朱丸がついているはず。
それが、こうして返されてきた。

つまりは何者かが右大臣殿にかけられた術を解き、
さらには我が頬に向けて過たず返してきたのだ。

この安倍晴明にそのようなことができるのは、あやつ……道摩しかおらぬ。
となれば、右大臣殿が道摩に命じたことになる。
右大臣殿は、京に戻った道摩と結んでいたのか!

しかしこの呪印は、ごく弱い術だ。
あやつならば術を解いて消し去るのは容易なはず。
だがそれをせず、わざわざ我が元に返してきた。

即ち、自分が右大臣殿と共謀していると告げたも同然。
最も秘すべきことを露わにしたのはなぜか。

――理由は一つ。
道摩はすでに右大臣殿と袂を分かったのだ!

経緯は分からぬ。
だが、道摩との繋がりを知られて困るのは右大臣殿。
それを知っていて、あやつはこの晴明に報せてきた。

では、道摩は右大臣殿を陥れようとしているのか?

いや……ここで短慮はならぬ。
これまでのやり口からすれば、道摩の狙いは右大臣殿の失脚だけではあるまい。

だが、あやつがこれまで右大臣と結んでいたのは事実。
ならば………。

やおら晴明は口を開いた。

「道摩の居場所が分かるやもしれぬ。
つまりは神子殿の所在もじゃ」

吉平と友雅に驚愕が走る。
「何と! 父…お師匠様、あの朱丸から如何にして……」
「どうすればその場所が明らかになるのですか?」

だが晴明はなすべき事のみ答えた。
「話せば長い。まずは右大臣殿が持つ京の屋敷を全て知らねばならぬ」

「う…右大臣殿ですと!?
そのような方が関わっているとは……確かなのですか!?」
いつもは冷静な吉平がうろたえている。

一方、友雅は一礼して立ち上がった。
「鷹通…治部小丞殿ならば、すぐに調べをつけるでしょう。
治部省には私が参ります。
詳しい話は戻ってから伺うとして、
吉平殿、右大臣殿の件はまだご内密に」

諸々尋ねたいことはある。
あかねの行方も泰明のことも気がかりだ。
永泉の行方も分からない。
仁和寺に宮中の使者が行けば、極めてまずいことになる。

今は時が惜しい…と友雅も切に思った。

馬上の人となった友雅の髪を霧のような雨が包み、
滴となって流れ落ちていく。





あかねは屋敷の中を探索している。
まずは自分が囚われているこの場所を知らなくては、と考えたのだ。

道摩はすぐには戻らないだろう。
ならばその間にできることは何でもしようと思う。
とっくに腹はくくっている。遠慮は無用だ。

屋敷には様々な姿をした式神や、
形を持たぬ靄のような式神が配されていた。

それらはあかねからつかず離れず、現れては消え、
ある時は行く手を塞ぎ、ある時はうごうごと激しく動き、
そうかと思えば、ちん…と静まりかえってしまうこともある。

庭に出ようとした時は一斉に集まってきてあかねを阻んだが、
室内ならば、大目に見てくれているらしい。

見知らぬ式神は不気味だ。
だが、足がすくむほどの怖さはない。

――泰明さんや晴明様の式神を見慣れているおかげかも。
ふふっ、よかったな。
怖がるだけじゃ何もできないもの。

あかねは我知らずにっこりした。
笑顔を向けられた靄のような式神が、ぷわっと壁に貼り付く。

「式神さん、そこをどいてくれる?
この部屋に入りたいの」

貼り付いた式神はきぃきぃと音を出したが、
特に邪魔をする様子はない。

「ありがとう、式神さん」
あかねは奥まった部屋の、塗籠と覚しき扉を開けた。

が、中は真っ暗だ。
雨模様の薄暗い日、四方を壁に囲まれた塗籠の中は黒い穴倉のようだ。

しかし少しだけ躊躇った後、あかねは足を踏み入れた。

と、膝に固い物が当たる。
大きさからすると、唐櫃のようなものか。

外界の微かな光を頼りに眼を凝らすと、
櫃には豪奢な飾りが施されているのが分かる。
そして飾りの中央には、見慣れた形があった。

――下り藤の家紋!
なぜ藤原家の紋が……?

……泰明さん……
あかねは唇をかみ、懐の護符をぎゅっと握りしめた。





「何だよこれ……。ひでーじゃねえか」

東の市に手がかりを求めてやって来たイノリは、
泥道に散乱した石を見て足を止めた。
昨日、あかねが乱暴な店主に打たれたのはこの辺りだ。

散らばっているのは道端にあった古い祠の欠片だ。
苔むした石の割れ目だけが新しい。

今日の早朝、晴明の白鷺と道摩の黒鷺の戦いで破壊されたとは、
イノリには知る由も無い。

祠は忘れられて久しいのか、
道行く者達は気に留めることもなく通り過ぎていく。

かりっと親指を噛むと、イノリは石を拾い始めた。
「道摩のことは気になるけど、これは放っておけないよな」

丁寧に石を拾い集めて元の場所に戻したその時、
背後に気配を感じた。

振り向けば、あの乱暴な店主だ。
「お、やっぱり威勢のいい兄ちゃんか。
誰も拝まない祠を直すなんて関心だな。
ここはずいぶん前から崩れていてな、
どんな神さんが祀られていたかも分からねえんだぜ」

昨日とは打って変わって、荒くれた様子は全くない。
ちょうどよかった。これなら話を聞けそうだ。

「いいところに来たな、おっちゃん。
ちょっと聞きたいんだけどさ、
昨日、おかしな坊さんがいただろ?
そいつのこと、何か知らないか?」

すると店主は首をひねった。
「坊さん? 何のことだ?
昨日のことなら、小ちゃいガキと娘っこと、
あとは兄ちゃんと貴族……あとはオレだけだったじゃねえか。
見物してる奴らもいたが、坊さんなんざいなかったぞ」

「そ、そんなはずはないだろ!?
鷹通があんたから棒を取り上げた後だよ。
いきなり坊さんが近づいてきて、あかねに話しかけたんだ!
覚えてないのか?」

食ってかかるイノリを、店主はあきれたように振り払った。
「覚えてるもなにも、いない者を見てるはずがねえだろう!
どんなつもりか分からんが、変なことでからむなよ。
こっちは忙しいんだ」

「そんな……」
店主は嘘をついているようには思えない。
そそくさと立ち去るその背中を、イノリは呆然と見送った。

――これもまた、道摩の力なのか?
あの泰明を容赦なく痛めつけて、
あかねをさらっていった………。

くそっ、こうしている間にもやつは……。

イノリはくるっと祠に向き直った。
「ごめん。オレ、手がかりを探しに行かなきゃならねえんだ。
またここに来て、今度は泥を落としてきれいにするから。
イノリ様に二言はない。約束する」

手を合わせたその時、背後に気配を感じた。

なんだ、おっちゃん戻ってきたのか……と
喉元まで出かかった声が凍り付く。

「吾を探しているか」

漂い来た声に振り向くと、そこには僧形の男がいた。
異様な光を放つ双眸がイノリを凝視している。

刹那、くっと息が詰まった。
動けない――。

男の唇だけが動き、薄い笑みを浮かべる。
「神子の真名はアカネと言うか。
礼を言おう、離の八葉よ」



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あとがき

こつこつと書きためて、やっと一話上がりました。
あかねちゃんのタフなところを見習ってほしい二歳児の様子は次話で!

平成から零和にわたる連載になりましたが、
待っていて下さった方、新たに読んで下さる方に深謝!!!

そして時代が変わっても、泰明さんは永久不変の燃え萌えキャラです♪

2019.5.3 筆